綱紀粛正とサービス

一般に公共サービスでは、綱紀粛正とサービスの間には負の相関関係があります。
法を法令どおりに執行すれば、それだけサービスが低下します。
サービスをあげようとすれば、それだけ不正が発生します。

P(総生産:一定)=X(法の遵守)+Y(サービス)

これは一種の法則のように行政改革の動きを縛っています。
あちらを建てればこちらが立たず、こちらを建てればあちらが立たずという具合です。
土木を例にとりましょう。

一般に会計検査などでは出来高や数量が大きいものは可とし、少ないものは不可とします。
護岸ブロックの寸法や面積が大きければよし、足りなければ不可です。
なにもおかしくない、あたりまえのことのようですが、民間の製造業とは違います。

むかしソ連では公営家具工場が作る机が年々重たくなって、
人では運搬できないものばかりが山積みに残ったと聞いたことがあります。
おなじソ連の国産車ボルガも軽快なクルマではなかったと思います。
法に処罰されないように安全に作ろうとすれば、自然と重くなって使いづらくなるのでしょう。

身近な土木現場でもこういったことは日常よく目にします。
路側擁壁では、民地出入口をくりぬき型で作ると大変な手間がかかりますが、
コンクリート数量が減るので積算額は増えません。
地元の水田作業に合わせるため人を多く雇って工事を短期間で仕上げたところ、
仮設損料経費が削減されて赤字になってしまったということもあります。
数量だけで積算する方法だとソ連でおきたこととおなじことが起こるのは当然です。

日本の場合これがさらに大きくなっているのかもしれません。
法をよく順守する国民性のために、ソ連以上に偏ったサービス低下現象が現れているのです。
マスコミの報道とは逆に、日本の役所では
極端に正しく執務され過ぎていることが問題だとわたしは思っています。

たとえばいまの無駄な公共事業と呼ばれる一連の事業のことです。
非難を浴びている公共事業は、無駄か有用かは別として法の上では正確に遵法・執行されております。
役所ではなく、法のほうがおかしいのです。
適応している法律が終戦直後のモノのない時代(高度成長以前)のものなので、
それをそのまま正確に成熟国家に適応すれば拒否反応を示されて当然です。
国民車ボルガを大量生産して、国家権力で無理矢理
国民の狭いマンションのガレージに押し込んでいるようなものです。
これでは市民もたまったものではありません。

この綱紀粛正とサービスの負の相関関係は普遍法則です。
すべての公的サービスにあてはまります。
土木や公営企業に限った話ではありません。
役所事務の日常でも目にする事柄です。
一般に杓子定規と呼ばれて嫌われている事務処理のことです。

いまはどうか知りませんが、以前の免許更新は厳しい措置がありました。
更新期間を過ぎると運転免許証が取り上げられてしまうのです。
日にちを間違えてクルマで出向いていようものなら、帰りは代行タクシーになってしまいます。
タクシー代はともかくとしても、明日からの仕事がおじゃんです。
長期出張を理由になんとか2〜3日の期限切れをまけてもらえばいうことはないのですが、
それは担当者(役所側)にとってみれば不正行為です。

こんなことは日常業務でもいつも起きています。
役所は各種申請書の記入が複雑なのでついつい書き違いをしてしまいがちです。
また書き直しといっても、慣れていない素人は何度でも間違いをやらかすものなのです。
こういうとき大抵の窓口担当者は、申請者の目の前で訂正や記入漏れを直してくれます。
だれもが感謝する小さな親切です。
でも、誰かが別の目で見ると、この担当者のやっている行為は不正なのです。
マスコミでよく話題になる「公文書偽造」とよばれる悪質な行為がそれです。
小さな親切、大きな不正。

「善意」を「悪質」とは聞き捨てならないでしょうが、法とはそうしたものなのです。
法とは場合によっては人を処刑したり、戦争を仕掛けたりもする機能で、
人の見方・考え方では理解しにくいものなのです。
不正・違法というと社会に不安感を与えるのでふつうは「裁量」とよんだりもします。
でも裁量とは法をかってに解釈することですから、法を犯していることにはかわりはありません。

法が実態にあわないとはよく言われることですが、
実態にあわせて柔軟性を持たせようとすると、複雑になったり裁量が起きてきたりします。
法とは一種のプログラムなので、あまりに複雑にすると人が処理しきれなくなるのです。
こういう点でおなじプログラムで動く機械(コンピュータ)とは違います。

コンピュータは「ムーアの法則」にあるように、
CPUは18ヶ月ごとに性能は二倍になってきました。
しかしそれとおなじような感覚で法律を細分化してゆくと、
人は法の体系についていけなくなります。
つまり世の中がいったいどういった仕組みになっており、
またこれからどう変えていくのか、それがが把握できなくなっているのです。
これがいまの日本の現状でしょう。

数十万年というホモサピエンスの歴史の中で、法が生まれたのはつい最近に過ぎません。
機械(コンピュータ)とは違って、
もともと人間は法(プログラム)で働くようはできていないのです。

この世はかならずしも法ばかりで動いているわけでもありません。
現代の神とも呼ばれる市場経済システムは、上記の法システムとは別種です。
これは法のようなプログラム処理ではなく、ゲーム処理とでもいうシステムです。
ほかにも古代の神を利用した宗教システムだとか、イメージ処理の芸術システムだとか、
人類はいろんな社会管理システムをもっています。

それら管理システムの中で、法のシステムは強力です。
が、反面もっとも非人間的なシステムでもあります。
その極端なサンプルとしては、ポルポトの刑罰理想社会をあげれば十分でしょう。
こう考えると、あまりに「法の遵守」に固執しすぎるのもかんがえものです。

なお「法とサービスの法則」はわたしがここでの説明用にかってに記述したものです。
P(総生産:一定)=X(遵守)+Y(サービス)
なんかディメンジョン(単位)のムチャクチャな式ですが、
この式をとおしてモノをながめるとけっこうおもししろいものです。

サービス低下させてもいいから公務員をビシビシ厳しく処罰したい。
電子政府のプログラム処理で「法の遵守」効率をあげれば、
総生産が向上して、法の順守とサービス向上の両立がはかれるのか。
ほかにもいろんな見方があります。

X(遵守)とY(サービス)を極端に変化させてみます。
法の遵守を最低にする、つまり規則なんか無視してなんにも縛られない自由を実現する
とはたしてサービスは向上するのか。
それは自由主義体制とよばれ、法の遵守徹底を最大限とする社会主義体制と対局をなすものです。
この式はアメリカのお役所は、旧ソ連のお役所よりサービスが良いということを示しています。

じっさいはどうだったでしょうか。